皆さんこんにちは。
最近、「ポリアモリー」という言葉をよく聞くけど、いまいちしっくりこないなぁ。
もっときちんとポリアモリーという価値観がわかるようになりたいなぁ。
そんなことを思ってはいませんか?
そんなあなたのために本日は、ポリアモリーに関して日本ではあまり知られていない考え方を、ポリアモリー研究で世界的に活躍する日本人・幌村菜生さんの学説を参考に再考してみたいと思います。
これを読んだら、ポリアモリーに対するあなたの考え方が180度変わるかもしれません!!
連続単婚(シリアルモノガミー)の不毛さ

皆さん、シリアルモノガミー(連続単婚)という言葉をご存知でしょうか?
これは、一度に一人の人と付き合う(または、結婚する)ということを、別々の期間に複数の人とすることを言います。
シリアルモノガミー(連続単婚)は現在、多くの皆さんが日常的に行い染み付いているスタイルだと思います。
しかし考えてみたら、ちょっと変だなぁと思うことはありませんか?
例をとってみましょう。
たとえば、あなたはある一人の人と付き合っていたとします。
彼女(または彼氏)に向かって、
「あなただけよ。」
「あなたが一番好きだ」
などと言ったりしてはいませんか?
そしてその人とは冷めてしまい、次の人と付き合いだしてもまた新しい相手に、「好きなのはあなただけ」という言葉を再度投げかける。
そんな繰り返しを人生の中で何度もしてしまう。
これでは、「あなただけが好き」という言葉に対しての一貫性や重みを全く感じられない・・・
(本当にあなただけなの?と突っ込みたくなってしまう)
これが、シリアルモノガミー(連続単婚)における滑稽さとして語られていることです。

そもそも、シリアルモノガミー(連続単婚)の土台となっている価値観とは何でしょうか?
それは、個人の欲望の追求にあります。
その基礎となっている環境は、個人がバラバラに分断された現在の社会です。
個人が分断された社会ではなく共同体としての利益を追求していくことで、こういった不毛さが取り除かれるのではないのか。
そういった考えから登場したのが、ポリアモリーという価値観です。
共同体感覚とは?

共同体感覚についての話をする際、幌村さんは自身のスキー場での経験を取り上げて説明しています。
地域の人がなんとなくそこ(スキー場)にたむろして、コース外を滑走したり自然にできたコブで小さな技を決めてみたりしている。
そんな感じで、上に目指そうという力とみんなで仲良くたむろしようという力が混ざり合って、新しい技ができていったりどんどん上手くなっていったりする、といったような独特の創造的な雰囲気がありました。
『まずは場があり、自分は場の一部としてある』
そんな感覚が、共同体感覚です。

また、幌村さんは、キリスト教の新約聖書に書かれた言葉を引用して、共同体感覚の必要性を強調しています。

”一つの部分が苦しめばすべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれればすべての部分がともに喜ぶ。”
(新約聖書 第12章)
共同体の利益を追求することが、他人を苦しめて自分だけが喜ぶことをするよりも最終的にはみんなでハッピーになれる。
そんなような意味に理解できます。

さらに、キリスト教における愛についても少し取り上げています。
キリスト教における ”愛” とは、博愛(すべての人を等しく愛すること)、共同体愛、隣人愛のことです。
ここで『愛』とは、彼氏や彼女、または家族や友人の間だけであるものではなく、すべての人たちの間に本来あるべきだ、と解釈できます。
共同体愛や人類愛といったような広く愛するという感覚が、人のあるべき姿なのではないか。
そんな考え方が、ポリアモリーの土台となっています。
利他と利己の関係とは?

あなたは、利他的な振る舞いと利己的な振る舞いは全く逆の行為であると思いますか?
あなたは、利他的な振る舞いが同時に利己的な振る舞いであるということがあり得ると思いますか?
では、考え方や発想を逆転させてみて自分は共同体の一部であると考えてみてください。
すると、共同体の利益が共同体の部分である自己の利益にもなるというように考えることができると思います。
そうやって、利他と利己は拮抗せず共通の利益のために働いています。

しかし多くの人がすでに知っているように、今の社会や生活の中では利己と利他が一致していない場面に多く出遭います。
それでは、利己と利他の一致を阻んでいるものとは一体何でしょうか?
幌村さんに言わせるとそれは、個人主義や核家族を始めとしたとても小さな集団でしか物事を考えなくなっていることが原因にあると言います。
私たちにとって最も適した共同体(社会集団)とは?

昔は大きな家でおじいちゃんから孫まで一緒に住んでいるのが当たり前だったのに、今はせいぜい親とその子どもたちだけで住むようになってしまったのはなぜでしょうか?
それには、資本主義の考え方が大きく関わっています。
モノをより多く売るためにも家を細分化して消費単位を増やそう。
これが資本主義の考え方です。
つまり、資本主義はまとまりや集団を極限まで小さくしようとする傾向を持っています。
それでは、共同体において理想的なまとまりはどのような単位なのでしょうか?
「動物社会」の著者であるエスピナスという哲学者の考えによると、『群れ』がその答えです。

『群れ』というカタチを人間で想像しにくいと思う方は、戯れている様子を想像してみるとわかりやすいかもしれません。
特にガチガチにこの人とこの人とこの人でなければダメといったようなルールはなく、自然発生的にできていってメンバーも緩やかに変化していくようなイメージを持っていただけるのではないかと思います。
そして、この『群れ』と敵対関係にあるものが『家族』であると哲学者エスピナスは言います。

家族は今、とても小さくて強すぎる結びつきになっています。
小さなパートナーシップの結びつきが大きすぎると、共同体を形成させること自体が難しくなるために、哲学者エスピナスは「家族」を「群れ」の大敵と考えています。
それらを踏まえた上でポリアモリー研究者の幌村さんが最も重要だとしているのは、自分自身との対話です。

何故なら、自分は何を求めているのか、自分において大事なものは何で全員の利益になるよう発揮していくにはどうすればいいのか、といった自分自身との対話がないと、共生ではなく共依存になってしまうからです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
本日は、最近知られ始めている「ポリアモリー」という言葉を、いつも語られる切り口とは違う共同体という視点からポリアモリー研究で知られる幌村菜生さんの考え方を参考にご紹介していきました。
これを読んで、ポリアモリーに対して普段とは違った視点からの発見や理解が生まれれば幸いです。
それでは、本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
ではまた〜。
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