「この人がいなかったら私はずっと、今の自分を肯定できずにいただろう。」
当時の私はコンプレックスという衣を何重にもまとっていた。その衣をまとうことは、まともに歩くことはもちろん、立っていることだけでも精一杯な生きづらさを私に課していた。そういった生きづらさに光をさしてくれたのが彼の存在だった。
「口にするのも虚しい。」そう思う私の鎧の1つ1つ、一枚一枚について、ポツリポツリと語り始めたのは、その頃だったと思う。まるで、「こんな私でも、あなたは好きになってくれますか?」とでも問うかのように。その一つ一つに、何を言うでもなくただじっと耳を傾け、その全てを受け入れてくれた。ほっそりとした体型だった彼だけど、私にはとてつもなく大きくて偉大な存在に思えた。
そんな彼に救われ、私は次第に自分を肯定し、自分のこれまでの人生を肯定できるようになっていった。「過去」を変えようとしていた過去から、「未来」を「今」を変えようとしている自分と出会うようになったのだ。
そんな彼も、今はもう私の人生の中にはいない。人生とは「別れ」の連続である。そんな切なさも、昔の恋人がいたことも忘れて実家に帰ったそのときだった。意外なところでその彼のことを思い出したのは。
「倉庫の鍵貸して〜。」
シャッターを開けると、引っ越し後そのままになっていたダンボールが山積みになっていた。一つずつ紐解いてダンボールを整理していくと、使いかけのバスペダル(薔薇の花弁の形をした入浴剤)が出てきた。他でもない彼からの贈り物である。シックなブラックに縁取られた透明なプラスチックの窓からは、
なにかいつも寡黙で、静かで、
私の大好きな小説家の一人、平野啓一郎さんの「マチネの終わりに」の一節に、こうある。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
過去は、変えられる・・・?
いや、そうかもしれない。なぜならいま、たった今、贈り物に添えられた黄金の手紙に触発されて、「愛されていた」という記憶が、現実のもののようにしっかりとした事実として、進んでいるからだ。
そして、その過去は現に、いま、私を幸せにしているのだ。
彼との過去は私の中で少し、柔らかさや繊細さといったものを帯びたのかもしれない。
そう、過去を変えられるほどの。
過去への一切の念を捨て去った故に生まれてきた、新たな「過去」。
全てを失うような別れも、たとえもう一生会わないような別れだったとしても、それは現実に今も生きているような気がした。変な話だけど、彼の魂が私の胸の片隅に宿っている気がして、なんだかホッとした。
それは私を安心させるには十分すぎるほどのものだった。「愛されている」という確かな自信が今も、私を幸せにする。
その幸せな花だけをそっと心の片隅に置いて、これからも生きていこう。
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